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・・・あなたへのメッセージ

礼拝メッセージ 6/11 2017

『キリストにならいて』

   ルカによる福音書3:21-22

 “さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて

   祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの       上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたし       の心にかなう者である」。” 

イエス・キリストは、十字架おいて私たちの罪の贖いを完成するためその生涯を歩まれました。

その歩みの一歩一歩は、わたしたちの模範でもあります。

⬛ 1.キリストの受洗にならいます

“さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて” ルカ3:21

 イエス・キリストが人々の前に登場されたのは、おおよそ30歳の時です。それから3年半かけて宣教を行われました。その3年半を公生涯と呼びます。その公生涯を記したものが福音書です。福音書は4つあり、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネが神様からそれぞれ示される視点でキリストを記しました。ですから、ある出来事は1つの福音書だけに記されてあったり、ある出来事は3つの福音書に記されてあったり、様々です。4つの福音書を読むことで、わたしたちはイエス・キリストの1面的な姿ではなく、その高さ長さ広さ大きさというような奥行きを知り、より立体的に知ることができます。そのような中で、4つの福音書すべてに記された出来事は少なく、少ないがゆえにそれは、とても重要な出来事といえます。

 今日、皆様と共に開いた聖書の箇所「イエス様の受洗」は、4つの福音書すべてに記された出来事です。イエス様が洗礼を受けられた(受洗)ことは、私たちが知るべき大変重要な出来事なのです。

 洗礼を受けること(受洗)をもって、イエス様は公生涯を始められました。今から約2000年前、ローマ帝国下にあったユダヤ。そこで一人の預言者が、人々を神に立ち返らせるための悔い改めのメッセージが強く語っていました。そしてヨルダン川において悔い改めのしるしとして洗礼を授けていました。人々は彼のことをバプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)と呼びます。イエス様は、そこで洗礼を受けられたのです。すべての人は神の前に罪を持っています。悔い改めて、心の向きを神に向け直す必要があります。しかし、イエス・キリストは罪のないお方であり、いつも父なる神に向き続けており、悔い改める必要のないお方でした。イエス様は、父なる神様に従う者への模範の第一歩として、バプテスマ(洗礼)を受けてくださったのです。しかもこの出来事は、4つの福音書すべてに記されています。それは大変重要な出来事であるということです。

 あなたがキリストを救主と信じるなら、あなたは洗礼を受けるべきです。それは誰よりもイエス・キリストが願っておられることだからです。

 Ⅱ わたしはキリストの祈りにならいます

“イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、”21-22

 先週のペンテコステ礼拝において、祈る弟子たちに聖霊が降られた事を見ました。その使徒行伝を記したルカは、福音書でも祈りに重点をおいています。イエス様がバプテスマを受け祈っておられると聖霊が降られました。

「祈り」は、イエス・キリストの生涯の基本です。ユダヤ教の有力宗教家であるパリサイ人や律法学者や祭司たちも祈っていたことでしょう。しかし、イエス様の祈りは彼らのそれとは違いました。

 イエス様は、霊的にいつも父なる神様とつながっておられました。もしかすると祈ることすら不必要ではないかと思えるほど父なる神様と一つであられたのです。そのイエス様が、誰よりも多くの時間をかけ、誰よりも深く祈っておられました。イエス様の祈りの特徴を分けるとざっくり3つです。

 

 ①礼拝である祈り(毎朝の祈り)

 イエス様は早朝に、祈られました。早朝とは一日の始まりであり、すべての活動の前です。一番最初に父なる神様に向かう。その姿勢そのものが礼拝です。礼拝とは、父なる神こそ唯一の神、わが主、わが王ですと告白し称えることです。この日一日は、あなたのものです。あなたのみ心に従います。あなたのみ心のままに導きをなして下さいと父なる神を崇めます。

 ②会話の祈り(常時の祈り)

 キリストは、父なる神を崇めるだけではなく、常に言葉を交わされ、思いを交わされました。福音書では、人に話している途中から祈りに変わっているイエス様の言葉があります。イエス様にとって人と話すことも父なる神様と話すことに何の違いもありませんでした。主なる神様を畏れ敬うことは大切です。しかし、形式的な祈り、心ここにあらずの祈り、そこに主なる神様がおられることを、目の前で聞いてくださっていることを忘れた祈りは、ただの独り言です。神様とお話しましょう。それが常時の祈りです。

 ③重荷の祈り(徹夜の祈り)

 12弟子の選出、バプテスマのヨハネの死、ゲッセマネの祈りなど、重要な事態に向き合った時、重荷を負った時、キリストは徹夜の祈りや深夜までの祈りをなされました。

 クリスチャンは、人生の解決主を知っています。人生に起こってくる様々な問題課題に対して、その解決策は知りません。知恵がすぐに出てくる人もいるでしょうが、おおよそアタフタとするばかりです。しかし、それを解決できるお方を知っています。答えがわかっているお方を知っています。解決主は父なる神様です。だから私たちは祈ります。主なる神様の愛と導きに信頼し、答えがいただけるまで祈ります。重荷を負ったまま寝床に入っても安眠することはできません。日中の出来事が頭を駆け巡り、眠れない夜は祈るべき夜です。

 Ⅲ わたしは父なる神の心をかなうキリストにならいます

“そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。”22

 イエス・キリストは父なる神様の心にかないました。父なる神様は、イエス様をとても喜ばれました。その神様の心にかなうキリストにわたしたちは、ならいます。あなたはまず、祈りの生活から始めることができます。朝一番の目が覚めたまず祈りから始めます。願わくば早天祈祷会で出席することが願わしいですが、まずは、寝起きのスタートを神様へ一言の祈ってから活動するそんなところから始めてみましょう。そして、日中の出来事の中で祈ることができます。大きな子ことも、些細なことも、主に尋ね、主に助けをいただき、主に感謝し、祈りをとおして、主に導かれてる喜びを感じて下さい。祈りは義務ではありません。あなたに与えられたすばらしい恵みであり、特権です。あなたは心に重荷を抱える時、夜に時間をかけて祈ることができます。徹夜をするために祈る必要はありません。ただ、その重荷が除かれるまで、心に平安が与えられるまで祈ってみて下さい。わたしたちもまたイエス様と一緒に、神様に喜んでいただける者とならせていただきます。

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