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・・・あなたへのメッセージ

今週の礼拝メッセージ 7/16 2017

『キリストの好み』

   マタイ9:9-13 【口語訳】


9:9さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、

   「わたしに従ってきなさい」と言われた。す ると彼は立ちあがって、イエスに従った。

 

9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や

        罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。

 

9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。

 

9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。

 

9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、

         義人を招 くためではなく、罪人を招くためである」。
 

    食卓は、家庭の象徴です。食卓の様子を見れば、どんな家族なのかが垣間見れます。賑わいのある食卓、沈黙の食卓、会話のある食卓いろんな食卓があります。賑わいのある食卓は、家族で集まることを大切にしている家族かもしれません。沈黙の食卓は、しつけを重んじる家族、または個人に干渉しない家族。会話のある食卓は、互いに関心をもっている家族のようです。イエス様は何を大切にしておられたのか、その食卓をのぞいてみましょう。

 

 Ⅰイエス様の愛は、食卓であらわされます。

“それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。”9:10

 福音書に記されたイエス様の出来事は、よくよく食卓でのことが多くあります。イエス様は食いしん坊だったわけではなく、一緒に食べるということ自体を大切にしておられました。ユダヤの風習として、食事をともにするということは、友人であること仲間であることを表します。

すすんでイエス様は食卓で御言を開くときともされ、集うものはより深く真理を得ました。

 イエス様が食卓で大切にされたのは、「食」ではなく、「人」です。「人」を大切にするすばらしいツールとして「食べる」ことを用いられました。食卓を「受け入れること」「交わること」「真理を知る」ところとされました。

 Ⅱイエス様は、イエス様を必要としておられる者を受け入れられます。

“イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。”9:12

その日は特に、取税人マタイを弟子として召され、そのマタイがイエス様一行を自宅に招待しましたから、彼の取税人仲間をはじめユダヤ人が罪人だと蔑んだローマ帝国側の職業の人々も席を共にしました。それを見ていた厳格主義者パリサイ人たちがイエス様を避難します。その時にイエス様は上の言葉を語られました。もっともな話です。健康だと思っている人は、医者へ行きません。工合が悪いからこそ医者へ行きます。イエス様はご自分を医者に例えておられます。病人が治るために医者が必要なように、罪人が変えられるためにイエス様が必要だと言われています。病気の人と係ることで、医者も病気になるリスクはあります。しかし、医者は自分へのリスクよりも病人が治ることを第一としています。自己犠牲です。イエス・キリストは更に罪人を救うために実際、わたしたち全人類の罪の全てを身代わりに背負い十字架にかかってくださいました。完全なる自己犠牲です。

 Ⅲイエス様のこのみはあわれみです。

“『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない”9:13

健康な人は病院に行きません。必要が無いのともう一つ理由があります。風邪などの病気が伝染ることもあるからです。パリサイ人は罪人とかかわることは、自分たちが汚れてしまうと思っていました。そんな風にしか他人を見ることができませんでした。パリサイ人の他人を見る目は、罪があるか、ないかです。イエス様が人々を見る目は、汚れているか罪があるかないかではなく、救われてほしいというあわれみのまなざしです。いけにえは罪の赦しのためにささげるもの、自分の罪が洗い清められるためのものです。突き詰めれば「自分のため」です。あわれみは「他者のため」です。父なる神様もイエス様も好まれるのは、あわれみです。あわれみをもって私たちを見てくださり、そしてそのようにキリストとともに生きることを願っておられます。

“わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。”9:13

わたしたちはイエス様に招かれました。だから私たちも招きます。 あなたは食卓に家族を招くことができます。食卓で耳を傾けることができます。子どものことば、夫のことば、家族のことばを聞くことができます。食事という同じ行為を通して、人としての距離を近づけることができます。難しい話も美味しいものを食べたら、シンプルに紐解くことができやすくなります。

あなたは食卓に友人を招くこともできます。時に忘れられない体験となるでしょう。

わたしたちは、スモールグループをイエス様の食卓とします。会議や話し合いの場がスモールグループではなく、イエス様の食卓です。受け入れ、交わり、真理を知ります。ですから、スモールグループの時は、ティーでも食事でも何がしかの食を共にしましょう。

わたしたちは、ランチミニストリーをとおして、大人も子どもたちも迎えます。そこがイエス様の食卓となることを願います。礼拝に出席できなくても、ランチから来られてもイエス様に会えるそんなランチミニストリーを目指します。

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