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・・・あなたへのメッセージ

礼拝メッセージ 7/2 2017

『神の言葉に生きる』

   申命記81-20 【口語訳】

 
8:1 わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければ

   ならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなた

   がたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。
8:2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、

      あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われ           た。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
8:4 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。
8:5 あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。
8:6 あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。
8:7 それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある           地、
8:8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、
8:9 あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である。その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取るこ           とができる。
8:10 あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。
8:11 あなたは、きょう、わたしが命じる主の命令と、おきてと、定めとを守らず、あなたの神、主を忘れることのないように慎まなけれ           ばならない。
8:12 あなたは食べて飽き、麗しい家を建てて住み、
8:13 また牛や羊がふえ、金銀が増し、持ち物がみな増し加わるとき、
8:14 おそらく心にたかぶり、あなたの神、主を忘れるであろう。主はあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出し、
8:15 あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅           い岩から水を出し、
8:16 先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわ           いにするためであった。
8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。
8:18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を           得る力を与えられるからである。
8:19 もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、――わたしは、きょう、あなたがたに警告する。――あなたがたはきっと滅びるであろう。
8:20 主があなたがたの前から滅ぼし去られる国々の民のように、あなたがたも滅びるであろう。あなたがたの神、主の声に従わないから           である。
 

「聖書」と聞いて、あなたはどのようなイメージを持ちますか?

 

  神の言葉、神聖なことば、道徳、規範…。もし押し寿司のように型にはめるそのようなイメージを持っているなら、寂しい限りです。きっと教会に向かう足は重く、クリスチャン生活は味気ないものと感じることでしょう。あるいはクリスチャンには、なりたくないと強く想うかも知れません。ちなみに押し寿司というのは、木枠の型に酢飯を入れ、具を乗せ、それの上からぶ厚いフタで圧力をかけ押し固めるお寿司ことです。かつて関西で寿司といえば押し寿司のことだったとか。美味しくいただける押し寿司と違って、型にはめられるそんなイメージでとらえた聖書のことばは、あじけなくて固くて、食べられたものではありません。でもまじめなあなたは体に良いのだ、健康に良いのだと言い聞かせながら、苦い健康食品を口にするように、みことばを口にしているとするなら、いつかあなたはそれを口にすることをやめてしまうことでしょう。すでにやめてしまっているかもしれません。

 

“人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。”8:3

 今日は、わたしたちを生かすみことばを美味しくいただくために、みことばがどのような意味があるのかを共に見ていきましょう。

 

 Ⅰわたしはみことばに沿って祝福へ向かいます。

“わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。”8:1

 神様の願いは、私たちが祝福を受けることです。祝福へ向かうことです。そのために聖書を与えてくださっています。聖書にはあなたが幸せを得るための道が記されています。初めての土地に行った時、頼りになるのは地図であり、道路標識です。矢印の先が書かれた町の名前がどれほど、頼りになるでしょう。

 

 先週のメッセージでは、荒廃した都エルサレムを復興させたユダの民を見ました。かつて偶像礼拝に染まったユダの民は神様の祝福を失い、異国バビロンに滅ぼされ、捕囚となりました。しかし、50年後主なる神様の赦しを受け、祖国に帰ることができます。彼らは神殿を再建し、崩れた都の城壁を築きました。その完成の時、民衆は広場に集まり神の言葉に耳を傾けます。その時、ユダヤの民は悔い改め涙します。まさにその時読み上げられたみことばこそ、律法であり、申命記です。今日の箇所申命記8章に記されたような神様による祝福の約束と滅びへの警告のことばです。彼らはそれを聞き、みことばのとおりであったことを実感したのです。

 聖書のことばすなわち「みことば」は、道路標識であり、ガードレールのようなものです。道の行き先を示し、道を外れないように守ってくれています。暴走運転の挙句、ガードレールを突き破って、道の外へ行った場合、結末は悲惨です。そのような事故ではおそらく命はないことでしょう。人生においても同じです。時にみことばは、道幅を示し、私たちが道から外れることを守ってくれます。それ以上外れないようにガードしてくれます。ところが、勢い余って、みことばをぶち破り、外れてしまうならば、そこには滅びが待っています。神様は、そうならないようにわたしたちにみことばを与えてくださったのです。

“わたしが、きょう、命じるこのすべての命令を、あなたがたは守って行わなければならない。そうすればあなたがたは生きることができ、”8:1

わたしたちが、生きることができるように主なる神様はみことばを与えてくださいました。

 

“かつふえ増し、主があなたがたの先祖に誓われた地にはいって、それを自分のものとすることができるであろう。”8:1

 ただ目線は、目指すべき祝福の方向、約束のみことばに目を留めて下さい。車の運転で、道からは外れてはいけないからといってガードレールばかり気に留め、そこにばかり目線をやっていると、余計不安定な運転となり、肩には力が入り、それはもう肩がこることでしょう。運転することが嫌になるかもしれません。道から外れないことは大切です。道を外れるという「罪」を恐れ、警戒することは大切です。しかし、目線は進行方向である神様の祝福に向けることが大事です。その約束の向こうで待っていてくださる主なる神様に目を向けて下さい。

“あなたの神、主の命令を守り、その道に歩んで、彼を恐れなければならない。それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である。その地の石は鉄であって、その山からは銅を掘り取ることができる。あなたは食べて飽き、あなたの神、主がその良い地を賜わったことを感謝するであろう。”8:6-10

 神を恐れることは、神様をいつも意識することです。いつもそちらを見ているということです。キリストの十字架を知っている私たちは、父なる神様を裁くお方として恐れるのではなりません。十字架に至るまで愛してくださるお方として恐れます。いつもいつも身震いがするほどに、愛されていることを実感しながら恐れます。

 

 Ⅱわたしは主なる神様の訓練を乗り越えていきます。

“あなたはまた人がその子を訓練するように、あなたの神、主もあなたを訓練されることを心にとめなければならない。”8:5

 神様が私たちを祝福へと導いてくださるのですから、そのたどる道は高速道路のように美しく舗装された道と思いがちです。ところが時にボコボコの悪路となることがあります。なぜでしょうか。それはあなたの訓練のためです。

 イスラエルの民は、奴隷状態だったエジブトの地から救出され、約束の地へと導かれました。ところが、不信仰のゆえに荒野を40年間旅することとなりました。その厳しい状況下にあって、神様は彼らを養い続けられました。マナを与え、水を与えて、服が擦り切れることがなかったとも書かれています。

“あなたを導いて、あの大きな恐ろしい荒野、すなわち火のへびや、さそりがいて、水のない、かわいた地を通り、あなたのために堅い岩から水を出し、先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。”8:15-16

 私たちが幸いとなるために神様は人生の訓練を与えられます。ちゃんとあなたが祝福に与ることができるように訓練を与えられています。単調な道では、つい速度が出過ぎてしまったり、睡魔が襲いやすいです。時にそのような道路に小さな段差舗装がされて、車内にタイヤ走行音が響き、自ずと速度を落としたり、目が覚めたりします。私たちがぼーっと人生を歩んでいる時、そのような小さなアクセントのような出来事を起こされたり、本気の悪路をゆかせられることもあります。その時、私たちは嫌でも祈ります。心から祈ります。

 目線が主なる神様からそれて、神様以外のものに移ろうとする時、まさに事故でも起ころうかという時、あるいはあなたが成長のために訓練を与えられます。

 物でも、人でもなく、ただ主なる神様に頼ることを学ばされます。ただ主を信頼することを体験させられます。私たちは訓練をとおして神様への信頼を深めていきます。

 それに神様は私たちにただ悪路を踏ませるだけではなく、必ずそれに見合った備えも与えてくださいます。悪路用のタイヤを与えてくださったり、あるいは4WD車やオフロード車に乗り換えさせられたりします。イスラエルの民にマナという不思議な食べ物を与えてくださったように、主なる神様は訓練と不思議な備えをあなたに与えられます。大切なことは、主なる神様を信頼することです。

 

 Ⅲわたしは祝福されても傲慢になりません。

“あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。”8:17-18

 主なる神様はあなたを祝福へ導かれます。だからこそ心に留めるべきことがあります。

傲慢にならないようにということです。天国というゴールにたどり着けば、大丈夫ですが、手前の様々な祝福を受ける時、傲慢に陥る危険があります。主なる神様は、祝福に至る道において、エスカレーターのように私たちを運ばないことはすでに学びました。悪路を使い訓練されます。その際、私たちが一所懸命に努力することも含めての訓練であったりします。すると、祝福を受けた際、私たちは勘違いすることもあります。自分の努力でその(祝福の)結果を得たのだと。傲慢の先は滅びです。あなたは、努力することができたこともまた、主の恵みであると感謝し、栄光を主に帰すことができます。あなたが努力することができた環境に置かれていたこと、努力するための素が与えられていたこと、結果を得るために様々な状況が整えられていたこと、ただ主の恵みに持ち運ばてた結果、その祝福を与えられていることを主に感謝し、ただ主に栄光を帰す時、キリストご自身と心を一つにする本当の祝福を与えられます。

 九州教区ソフトボール大会優勝トロフィーにはこう刻まれています。「栄光在主」。

小さなことも、大きなこともただ主に栄光を帰する。スポーツのような遊びでも、仕事という真剣な場でも同じく主に栄光を帰する。決して「自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た」とは、言わない。ただ主を覚える。

 

 わたしたちはみことばをとおして、祝福へ導かれ、守られ進んでいきます。みことばを「聞き」、「読み」、「覚える」「学び」「自分に当てはめ」、「実行する」ことで、わたしたちは、みことばを従い守ることができます。

 折しも2017年の上半期が終了し、後半を迎えた節目の時です。あらためて、聖書を読み始めてみませんか。あなたを祝福へ導きたいと願う神様のことば、聖書に耳を傾けてみましょう。

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