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Message

to you

・・・あなたへのメッセージ

礼拝メッセージ 6/25 2017

『力が与えられるには』

   ネヘミヤ記8:10 【口語訳】

  主を喜ぶことはあなたがたの力です

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​ 今日の午後には、教会音楽会を行います。今年で第19回となりました。毎年、多くの一般ゲストの方々が参加して下さり、ありがたく思います。またこうして礼拝から出席して下さっている方も大勢おられ感謝致します。毎回、参加される方々は素敵な演奏をして下さいます。巧さもさることながら、音楽に向かう一所懸命さや真摯な姿で奏でられる音色に心打たれます。音楽とは人に力を与えるものだと感じます。そんな音楽を私たちに与えて下さった父なる神様に感謝致します。

 神様はあなたを力づけたいと思っておられます。その生活の中で、人生において力づけ励まし守りたいと。わたしたちはどうすれば神様からの力を受けることができるのでしょうか。

Ⅰ主を喜ぶことはあなたがたを守ります

“主を喜ぶことはあなたがたの力です”8:10 

 「主」とは、天地万物を創造された父なる神様のことです。 主を喜ぶことがあなたの力となると約束されています。新共同訳聖書では、「力の源である」と訳されています。大分といえば温泉県です。酸性からアルカリ性、炭酸泉から砂湯まで種類も豊富です。県内各地にそれらの源泉があります。こんこんと湧くところもあれば、吹き上げているところもあります。源泉それは湧き続けているところです。神様を喜ぶことは、あなたの力の源です。あなたにとって一時的な助けではなく、いつまでも続く力となります。あなたをちょっと後押しするそんな力ではありません。どのような状況や事情に変化しようとも湧き続ける力の源です。 

 ここで使われている「力」という言葉は、他の箇所では「とりで」や「安全な場所」と訳されます。主を喜ぶことはあなたがたの「とりで」です。

 古代の都市は小高い丘や山の上に造られ、町の廻りには城壁を巡らします。弱肉強食、略奪強奪、力による侵略が当たり前だった時代、城壁がなければ、すぐに攻められ、財や食料を奪われてしまうからです。奪われるだけならまだしも、命を失うこともあります。その町にどれほどすばらしい歴史があっても、そこにどれほど豊かな生活を営む人々がいても城壁がなければ、たちまち町の歴史は失われ、生活も踏みにじられます。都市は城壁を巡らし、すべてを守る「とりで」でした。

 主を喜ぶことはあなたがたのとりでです。主を喜ぶことによって、あなたは守られます。主を喜ぶことがあなたの人生と生活を守るのです。仕事がうまくいかない、思いもよらない出来事、あなたの人生に逆風が吹くとき、そのままにしていると人を恨んだり、自分を必要以上に責めたり、落ち込みすぎて負のスパイラルに陥ることも。逆に順風満帆、やることなすことうまくいく。そんなときは有頂天になり、高慢になって、他人を見下げたり、家族を雑に扱ったりと、後に大きなダメージに繋がる轍を踏む危険もあります。逆風も順風もどのようなときも主を喜ぶことにこころを払うなら、あなたはかならず守られます。決して心を壊すことも、人を苦しめることもなくなります。

 では、主を喜ぶこととはどういうことでしょうか。

 

Ⅱ主への礼拝を喜ぶことはあなたの力です

 主を喜ぶこととは、神を礼拝することです。 「主を喜ぶことは」の「喜ぶ」という語は、今日のところ以外で2回使われています。ともに神様の神殿に関わるところで用いられています。この「喜び」は礼拝に直結しています。その一つにこうあります。

 “誉と威厳とはそのみ前にあり、力と喜びとはその聖所にある。”歴代上16:27

「聖所」は、神殿の中でも神様のご臨在が満ちた聖なる所、神様にお出会いする所です。祭司だけが入ることができ、外界から隔絶された特別な場所です。今で言えばまさに礼拝を表しています。

 礼拝は、主なる神様との交わりです。神様と出会い、言葉を交わし、その思いを知ります。 

 礼拝は、主なる神様を心からほめたたえる賛美です。心のこもった言葉をもって神様を称えます。今朝、教会学校でお話をしました。人の悪いところではなくはなく、良いところに目を留めるという趣旨の話しでした。そこで、二人組になって、互いの良い点を3つ探してもらうことにしました。小学六年生の男の子が一人だったので、私と組みました。その子の良い点3つを挙げました。続いて、男の子が私の良い点を言う番です。小学六年生男子、いわゆる思春期、反抗期に入ります。気恥ずかしくて、何も言わないかなと勝手に想像していました。「先生の良いところ一つ目は?」と尋ねると、彼はすぐに「やさしい」と答えました。その言葉を聞いたとたん、うれしさがこみ上げてきました。よもや自分がこんなにうれしくなるとはと思えるぐらい、うれしい言葉でした。自分で自分をやさしいとは思っていないだけに、よけいうれしかったのでしょう。人に心を与えられたのは主なる神様です。私たちがこころから神様をほめたたえるとき、どれほど喜んで下さることでしょう。

 礼拝とは、主なる神様を自分の人生の一番として認めることです。一番重要なお方、自分の人生の主権者として仰ぐことです。わたしたちは自分の人生を自分でコントロールしようとして悪戦苦闘し、収拾がつかなくなることに。自分にとって願わしいことも、そうでないことも、私たちには及びもつかない神様の計らいの中ですべてが進んでいることを認めるとき、あなたには力が与えられます。私たちには神様の偉大なお考えを読み解くことはできませんが、ただそのお考えの元になっているものだけは知っています。父なる神様はわたしたちを愛して下さっていると言うことです。

 礼拝には喜びがあります。礼拝を通して神様とつながり、祝福が与えられるからです。ところがわたしたち人間は罪深く愚かな存在です。命あるものをすぐに命ないものにしてしまいます。礼拝も形だけにしてしまいがちです。プログラムをこなすだけの礼拝、ささげなければならないからささげる礼拝、聖日礼拝に休んだらバチが当たるのではないかとか、牧師から電話がかかってくるのではないかとか、強迫観念で縛られた礼拝や律法的な礼拝。それはまるで、中身のない最中のようなもの、具の入っていない豚まんのようなものです。それが好きな人もいるかもしれませんが、商品として提供されるなら、クレームの嵐です。

 形だけではなく、中身のある礼拝、喜びの礼拝をするためには、キリストの十字架に目を注ぎます。

Ⅲ主の十字架を喜ぶことはあなたの力です

 主を喜ぶことは、イエス・キリストによる救いを喜ぶことです。

 今日の御言葉が語られた場面を考える時、意味深さを知ります。少しこの時の状況をお話しましょう。イスラエルの民は、今で言うパレスチナの地に王国を気づきました。サウル王、ダビデ王、ソロモン王。ソロモン王の時に国は最盛期を迎え、貿易によって大いなる富を得ました。ところが、ソロモン王は神の言葉(律法)に背き、偶像礼拝の罪を犯しました。結果、神の祝福を失い彼の子の代になって、イスラエル王国は分裂し、北イスラエル王国と南ユダ王国となります。北イスラエル王国では、ダビデの家系でないものが次々と王となり、国は偶像礼拝にまみれていき、ついにアッシリア帝国によって滅ぼされてしまいます。民はみな連れされられ、失われてしまいました。南のユダ王国は代々ダビデ家系の王が立ちますが、良かったり、悪かったり、悪かったり。神様が遣わされる預言者の警告も聞かず、結局偶像礼拝のゆえに、ユダの国も滅びます。バビロニア帝国の侵攻によりエルサレムは陥落、ユダの民はバビロンの地に捕囚となります。しかし、彼らは異国の地で自分たちの罪を認め悔い改めあらためて神様に向き合おうとします。主なる神様は、ペルシャ王クロスを起こし、バビロンを滅ぼさせ、ユダの民を解放しました。ユダの民は祖国にもどり、荒廃した都エルサルサレムを再興することを許されます。バビロンによって滅ぼされた時、エルサレムの神殿は打ち壊され、城壁も崩されて、丸裸のようになっていたのです。エズラ、ネヘミヤを通して、神殿が再建され、エルサレムの城壁が完成しました。念願であったイスラエルの象徴エルサレムの都が再び回復したのです。人々はどれほど喜んだことでしょう。その完成式典において、民は広場に集まり、主なる神様をたたえ、神の言葉である律法(旧約聖書)が読み上げられました。律法の中には神様による祝福の約束と、罪の結果がはっきりと記しています。当初喜んでいた民衆でしたが、だんだん泣き始め、ついに全員が泣き出しました。律法に書いてあるとおり、神の言われたとおりになっていたことを知ったからです。自分たちがなぜ辛酸を嘗めなければならなかったのか、国が滅び捕囚とならねばならなかったのか彼らは知ります。エルサレムに帰ってきた人たちの大半は、連れ去られた人々の子どもの世代です。彼らは亡国の民の子としてバビロンで生まれ育ちました。国を失った事実を親から聞かされ育ちました。時として親の願いが色濃く子どもに移ります。再びエルサレムへ戻り滅んだ都を再興したい。その願いは、彼らの願いとして今まさに城壁の完成をもって叶いました。ところが耳にする律法の中に自分たちの罪をみたのです。彼らは自分たち、自分の先祖たちが神の前に罪を犯したこと、その罪が驚くほど深いものだったことを認め、悔い涙しました。その時、今日のみことばが語られました。「この日はわれわれの主の聖なる日です。憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。その日は回復の日です。罪の故に神様の祝福を失った民が、神様の赦しを得て再び回復された救いの日です。新たに神様と共に歩み始める第一歩の日です。だから、もはや憂いてはならない。あわれをもって、赦しをあたてくださった主に目を注ぎ、主を喜ぼうと言われています。わたしたちもまた主の赦しに目を注ぎましょう。そこに主を喜ぶことがあります。

新約聖書にこう記されています。

“もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。”

ローマ5:10-11

 ユダの民が再びエルサレムに戻れたのも、城壁を再建することができたのも、律法を聞くことができたのも、ただ憐れみ深い主なる神様のお赦しがあったからです。私たちは主イエス様の十字架によって罪の赦しをいただきました。父なる神様が、神に敵対する罪深い私たち人間のため(私のため)に、大切なひとり子にすべての人の罪を負わせ、私たちがさばかれるかわりに、その方を裁かれました。神のひとり子イエス様は、その命をもって救いを与えて下さいました。それがイエス・キリストの十字架です。私たち人間は、主イエス・キリストの十字架による救いによって罪が赦され、神様と和解し、再び交わりを回復されたのです。あなたの罪はキリストの十字架によって赦されます。これは、すべての人に与えれた等しい恵みです。

 人生の歩みは、人それぞれ千差万別、生まれた時から、環境も状況も違います。けれど、十字架の恵みはすべての人に等しく与えらえれた神の恵みです。あなたの人生に何がなくても、十字架の救いは与えられています。神の愛は注がれています。わたしたちは主イエス・キリストの十字架を見上げる時、自分の罪の深さと同時に、神にいかに愛されているかを知ります。あなたが日々の生活で、人生の岐路で主イエス・キリストの十字架に示された神の愛を知り心から喜ぶとき、あなたには力が与えられます。キリストの十字架こそあなたの人生を守ります。

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