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・・・あなたへのメッセージ

礼拝メッセージ 6/18 2017

『父の愛』

   マルコによる福音書5:21-24、35-43 【口語訳】

5:22 そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、

  イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、
 5:23 しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。

  どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。
 5:24 そこで、イエスは彼と一緒に出かけられた。大ぜいの群衆もイエスに押し迫りながら、ついて行った。

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5:35イエスが、まだ話しておられるうちに、会堂司の家から人々がきて言った、「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。
 5:36 イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。
 5:37 そしてペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネのほかは、ついて来ることを、だれにもお許しにならなかった。
 5:38 彼らが会堂司の家に着くと、イエスは人々が大声で泣いたり、叫んだりして、騒いでいるのをごらんになり、
 5:39 内にはいって、彼らに言われた、「なぜ泣き騒いでいるのか。子供は死んだのではない。眠っているだけである」。
 5:40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなの者を外に出し、子供の父母と供の者たちだけを連れて、子供のいる所にはいって行かれた。
 5:41 そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。
 5:42 すると、少女はすぐに起き上がって、歩き出した。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに打たれた。
 5:43 イエスは、だれにもこの事を知らすなと、きびしく彼らに命じ、また、少女に食物を与えるようにと言われた。

​* * * *

 

 

 

 レストランでの風景。お父さんとお母さんと子どもたち、とある家族が食事を終えたときのことです。支払いを済ませようとする母を見て、子どもがお父さんに言いました。

「お父さんも、たまには払ったら」

もちろん、お母さんの財布から支払われるお金は、お父さんが汗水流して得たお金です。

お父さん、つらいですよね。わかってもらえてないのです。お母さんは子どもと接する時間が多くあります。コミュニケーション能力もお父さんより高いです。子どもはお母さんが大好きです。お父さんは、その家族のために外で頑張ります。肉体的な汗や精神的な汗をかきながら、必死に働きます。けれど、子どもにはその姿は見えません。一所懸命なのに、わかってもらえません。それでも父は頑張ります。家族を愛しているからです。今日は『父の日』そのようなお父さん方がいてくれることに感謝しつつ、聖書を通して「父の愛」を見てまいりましょう。

 

 Ⅰ娘への父の愛

“そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて、イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し、しきりに願って言った、「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。”

マルコ5:22-23

 

 親にとって、わが子が病で苦しむ姿は、自分が病で痛み苦しむより辛いものです。それが死にかけているとなると、なおさらです。ヤイロの娘は死にかけていました。ヤイロは、わらをも掴む思いでイエス様の所に向かいひれ伏し願います。ただただ娘を癒やしてほしいという一念です。会堂司というのは、ユダヤ教の集会場である会堂(シナゴーグ)を管理する役職です。今で言えば公民館館長というところでしょうか。会堂は地区ごとのユダヤ人コミュニティーの中心ですから、とても重要な立場にあったのがヤイロです。

 ところが当時、パリサイ人などのユダヤ教の宗教家たちがイエス様を殺そうとする不穏な動きがすでに出始めていました(マルコ3:6参照)。そのような中で、イエス様にお願いに行き、イエス様に自宅に来てもらうわけです。それはあとあと面倒になりそうなことなのです。一般民衆ならともかく、会堂司という立場上そのようにイエス様に関わると、ユダヤ教の指導者たちや関係者から、とやかく言われることも考えられます。悪くすれば失業も。

 ヤイロは人目もはばからず、イエス様の足元にひれ伏して、懇願したのです。娘を思う父の愛です。ヤイロは立場よりも娘を選びました。格好良く言うと、ヤイロは父として仕事よりも娘を選んだのです。結果、イエス様を通して娘は助かります。

 

 子である人々に知っていただきたい。父とはそういうものです。子であるあなたのために、あなたの知らいないところで、プライドを捨ててまでも頭を下げ、ただただあなたのために願える存在なのです。

 父である人々に覚えていただきたい。親子の人生の中で、子どものために「ここぞ」という時があります。その時に、もし子どもではなく立場や仕事、プライドを選んでしまったら、あなたは子どもを失ってしまうことになります。父として心を決めておいて下さい。あなたの仕事や役割には、(残念ですが)代わりが利くのです。しかし、その子の父はあなただけです。

 ヤイロの姿は私たちに2つのことを示しています。一つ目は「愛」を選ぶ時、未来につながるということです。わたしたちは、複雑な構造の社会に生きているためか、自分の人生を難しく考えがちです。社会的立場や役割、つきあいや責任、それらが悪というわけではありませんが、あなたの人生に絡まりついて、時として選択の身動きを取れなくしています。あげくどうしていいのかわからないようになり、周りに合わせるという選択や、自分にとって楽な方向を選んでしまいます。けれど、本当に大切なものを得たいのなら、人生において選ぶべきは、「愛」です。ヤイロは娘のためにイエス様の御もとに行き、ひれ伏してまでも懇願したのです。だから、娘が助かるという未来につながりました。もし彼が他を選択していたら、きっと娘を失う結果となりました。おそらく彼自身も心に傷を負い、一生苦しみ悔やみながら生きなければならなかったことでしょう。

 あなたの人生において選択肢がいくつかあるなら、どれが他者を愛することなのかを見極めて下さい。子どもを愛する選択はどれか、妻を愛する決断はどれか、その人を愛することは何か。

 そして、もう一つ大切なことはイエス様を選ぶことです。

 

 Ⅱキリストにあらわされた父の愛

“そして子供の手を取って、「タリタ、クミ」と言われた。それは、「少女よ、さあ、起きなさい」という意味である。”マルコ5:41

 ヤイロは娘を愛し、イエス様のもとに行きました。だから、イエス様はヤイロに応えることができました。あなたがイエス様のもとに行く時、イエス様はあなたに応えることができます。あなたが本気になってイエス様の足元で頭を垂れ、ひれ伏して祈るなら、応えてくださいます。苦しみあえぐ姿を黙って見ていることができるお方ではありません。イエス様に祈ることです。イエス様に求めることです。イエス様に来てくださいとお願いすることです。

 わたしたちは、ときにずるいことをします。体裁を取り繕い、いいとこ取りだけをしようとします。一所懸命懇願して求めて祈りつつ、その実は神様を利用しようとしているだけというお粗末なことがあります。もしこの時ヤイロが、諸事情を考えて「娘を癒やして下さい。でもおいでになる必要はございません。」などと言っていたら、娘は癒やされなかったでしょう。(イエス様が現場に行かずに言葉だけで癒された事例は複数あります。それらは、イエス様との信仰的やり取りがあって結果そのように導かれました。)

 もし私たちが「お願いします」の祈りだけをして、イエス様を迎えようとしなかったら、自分にとって都合のいい、奇跡だけ、結果だけを求めて、イエス様に来てもらおうとしないなら、そのような祈りはきかれません。きかれないばかりか、それは災いです。

 父なる神様は、イエス・キリストを通してあなたを愛したいと願っておられます。大切なことは、イエス・キリストをお迎えすることです。

 よくある間違いは、自分の中で整理がついたら、問題が片付いたら、もう少し良い人間になったら、イエス様をお迎えしよう(信じよう)と思うことです。これは間違いです。(ヤイロの)娘がよくなってから、イエス様に来ていただくようなものです。病気だからこそ来ていただく必要があります。死んだからこそ来ていただく必要があります。自分ではどうしようもないからイエス様に来ていただくのです。もうちょっと自分で頑張れる。イエス様には、もう少し後でなどと思うのは、イエス様をバカにしているようなものです。あなたの頑張りの出番は、イエス様に来ていただいてからです。イエス様と一緒に、イエス様の導きの中で頑張れば、用いられます。

 私たちに必要なことは、何をさておいてもイエス様に来ていただくこと。言い方をかえると、イエス様を自分の救主と信じることです。

 

 Ⅲあなたへの父の愛

“恐れることはない。ただ信じなさい”マルコ5:36

 ヤイロの娘は、病にかかりあげく死んでしまいました。しかし、イエス・キリストによってよみがえったのです。泣き騒ぐ人々はイエス様が「子供は死んだのではない。眠っているだけである」と言われても、信じることはできませんでした。医学的に死んだ以上、それでお終いです。それが私たちの世界です。そう言われたイエス様を人々があざ笑ったのもわかります。しかし、イエス様は娘がよみがえることを含めて、言われました。キリストの言葉には未来があります。今しか見えない私たちと違い、そこには希望があります死人をもよみがえらせることがおできになるお方は、あなたを生かすことができます。

 キリストをとおしてヤイロの娘は生かされ、ヤイロもまさに救われました。それは父なる神様の思いです。イエス・キリストはその行動のすべてにおいて父なる神様を表しておられます。キリストが触れられることは、父なる神が触れられることです。

 イエス様をお連れする道中に、娘の死を告げられたヤイロの心中はどのようなものだったでしょう。病だであるだけでも苦しみなのに、苦しみから絶望です。わたしたちも苦しみと絶望の世界に生きています。病の苦しみ老いの苦しみ、社会の苦しみ、そして待っているのは「死」という絶対的終焉、まさに絶望です。ある人は思います「生きることに意味があるのだろうか」と。少しの楽しみと多くの苦しみ、のたうち回った挙句、死を待つばかり。何のために生まれてきたのだろうと思いたくもなります。そんな私たちの姿、あなたの姿を見て、誰よりも憂いてくださったのが父なる神様です。

 世界を創造された神は、まさに世界の父たる存在です。すべてはこのお方によってスタートしました。神様は愛をもって世界を創造し、それが維持されるよう設計されました。父なる神様は、わたしたち人間が生きることができる環境を作り、支えてくださっています。太陽、水、土、海・・・神が創造されたあらゆるもので、私たちの生活は支えられています。人の努力ももちろんあります。しかしそれ以上の神の支えでわたしたちは保たれています。父なる神は、わたしたちを愛してくださっています。心から救われてほしいと願っておられます。

 ヤイロは「わたしの幼い娘が死にかかっています。どうぞ、その子がなおって助かりますように」と心底願いました。父なる神様はそれ以上に私たちが救われることを願っておられます。そして願うだけではなく、それを実行されました。

 私たちの苦しみと絶望の根源を絶つために、神のひとり子であるお方を私たちの世界に遣わしてくだったのです。それがイエス・キリストです。私たちの中に苦しみと絶望を生み出す根源は何でしょうか?それは、罪です。もともとの言葉は、「的外れ」という意味です。ズレているということです。英語のテスト前に数学の勉強をしているようなものです。シイタケが必要なのに海に行くようなものです。大学を卒業するのに、勉強ではなくバイトに一所懸命打ち込んで、頑張ったあげく、単位を落とし卒業できなくなるようなものです。大学事務所に駆け込んで、あれだけ(バイトを)頑張ったのに、なぜ卒業できないのですかと愚かな質問をするようなものです。どのような努力もズレていたら、無に等しいのです。私たちは神様に対して同じようなことをしています。世界を造られた創造主である父なる神様からズレているのです。その結果、死がもたらされ、苦しみうめきがとめどなく出てくる羽目になりました。一所懸命に努力して生きようとしても、ズレているために報われなかったりします。神から離れていることそれが原因であり罪です。そして罪には結果が伴います。滅びという結果です。聖書にはこうあります。“罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。”ローマ 6:23

 だから、わたしたちを愛してくださった父なる神は、キリストを遣わし、罪の結果である滅び始末されました。キリストに罪を負わせて、わたしたちの身代わりとして十字架で裁くという方法を通してです。

 父なる神は、この世のどのような父親よりも愛の深い子ども思いのお方です。そのお方が、わが子を犠牲にして、私たちを、あなたを救ってくださいます。

 わたしにもたくさんの罪がありました。行いの罪も言葉の罪、思いの罪も、自分に対しても他人に対しても、無意識にあるいは意識的に様々な形で傷つけてきました。救主キリストをお迎えする時、それらの罪を神の前に告白しました。今思い返すとその中でも両親への罪が最も重かったのではないかと思えます。反抗期において、悪態をつくことはありましたが、物理的な悪さをしたわけではありません。しかし、18歳でクリスチャンになるまで、親が子である私を愛してくれていることを、心で感じることはありませんでした。その鈍感さこそ一番の罪だと思えます。無関心とも言えるでしょう。

 中学を卒業し、集団就職で大阪で務めていた父と、高校を卒業して名古屋で務め始めた母が見合い結婚をし、私が生まれました。夫婦は、小さな漁港にある倉庫として利用していた小さな家屋を借りて暮らし始めます。貧乏ではありませんが、裕福でもありません。その後、親戚からお金を借りて家を買い、ちょっと田舎に引っ越しました。買った家は二戸一の2階建て。住むのには何の不自由もありませんでしたが、子どもの私は狭い間取りの家が嫌いでした。1Fに6畳の家族共有スペースしかなく、友だちに来てもらいにくかったのです。友だちの家は、ほぼいわゆる一戸建て。なんとなく劣等感のようなものがたまり始めていました。父はまじめな人で、酒はほとんど飲まず、タバコは一時期吸うことがありましたが、猛烈な家族の反対にあい断念。ちなみにその反対は、父の健康云々ではなく、副流煙の問題でした。仕事は、工場で中型船舶のエンジンを作る仕事です。毎日、定時に帰ってきました。学がない父は、漢字も読めないために万年平社員。趣味という趣味もなく、本を読むことも映画を見に行くこともなく、子ども心にこの人は何を楽しみに生きているのだろうと不思議に思う人でした(ちなみに健在です)。子どもの頃の私は両親に対してあまり良いイメージをもっていなかったのです。

 クリスチャンになり、3年ほど過ぎたある日のことです。父が忘れ物をして、私が職場に届けることになりました。父の職場が家と教会のちょうど中間地点にあったからです。午前中の勤務時間、工場内には立ち入れませんので、門の守衛さんに事情を話し、父を呼び出してもらいました。作業服を着た父が正門までやってきます。ありがとうと言って、受け取った手は、油まみれで真っ黒でした。すぐに作業に戻った父を見送り、わたしも教会へと向かいました。その時、車の中でわたしは涙が止まりませんでした。父は20年以上、手を真っ黒にして毎日毎日、家族のために働いてくれていたのだ。文句の一つも言わず、自分の趣味という趣味も持たず、ただ家族を養うために必死で働いてくれていたのだと、初めてそう実感したからです。自分がいかに愛されていたのか初めて気が付きました。同時に、愛されていることを知らずにいた自分の愚かさを心から悔いました。(ちなみに今では、老いた両親をハグするほど、感謝と愛情を表しています)。

 あなたは父の愛に気づいていますか? 両親の愛だけではありません。 父なる神様の愛に気づいていますか? 愛されていることを知っているなら、あなたはどう応えているでしょうか。十字架を御覧ください。ここにあなたを愛して下さっているイエス様と父なる神様の愛が表れています。命をかけた驚くべき愛が示されています。

 イエス様は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」。

父なる神様の愛を信じます。十字架で罪の身代わりとなってくださったイエス・キリストを信じます。ヤイロの娘をよみがえらせ、後には、ご自身も十字架で死んだ3日目に復活されたイエス・キリストを信じます。もう何も恐れる必要はありません。ただキリストをお迎えし、ただキリストを信じていくなら、キリストがあなたの生涯を生命に満ちたものとしてくださいます。

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